伝書鳩 - Wikipedia (via plasticdreams)
「汚れた手で貴重資料を扱うのは論外であるが、白い綿の手袋を着用することは、資料を傷めないどころか、むしろ有害であることが知られていない。白手袋着用は資料を丁寧に扱うことを意味するというのは、全くの神話だ」と著者らは言う。
この理由は、「綿手袋は素手の指先が持つ微妙な感覚を失わせるので資料を落としたり、ページめくりがしにくくなって無理が生じ、資料を傷める可能性が高くなる」。「触って得る情報が遮断される」。ここまではだれでも理解してもらえるだろうが、もっと大事なのは次の事だ。すなわち、「綿手袋は塵埃等の汚れを吸着する一方で、手袋内部では汗が揮発せず、手袋に吸収され、汗が資料に移りやすくなる」。ただし写真資料を扱う時は手袋の着用を奨める。
手袋神話はまた、資料にとってもっと悪い影響を及ぼしている事柄を心理的に隠蔽してしまうことがある。保管場所の大気の汚染、高温、多湿、紙の中の酸性物などの方が、資料にとっては、はるかに有害であるのだが。
石鹸で洗い、乾燥させた清潔な手の方が悪い影響はずっと少ない。もし頻繁に手を洗うことができない場合には市販の使い捨てのウェット・ティッシュやタオル(消毒用のアルコールを含ませてある)を使うのはとても良い選択だ。
「貴重資料は白の綿手袋を着用して」という誤解:むしろ害を及ぼし、清潔な素手での方が良い | ほぼ日刊資料保存 (via naha)
俺の最初の映画『ロジャー&ミー』では、生活保護を受けている白人の女が、
棒でウサギを殴り殺す。・・・「肉」として売るためだ。
この10年の間、俺はしょっちゅう、「かわいそうな子ウサギちゃん」が頭を殴られるシーンが
「恐ろしく」「ショックだった」と言われ続けてきた。
本当に吐き気がしたと言われた・・・なぜあんなシーンを入れたのかとしょっちゅう聞かれた。
アメリカ映画協会(MPAA)は、このシーンがあったために、『ロジャー&ミー』をR指定にした。
手紙をくれた教師たちは、この映画を生徒に見せる際に問題にならないように、このシーンを削除したという。
だけど俺は、このウサギ殺しのシーンのわずか2分後に、
フリントの警官がスーパーマンのマントを着ておもちゃの銃を持った黒人を射殺するシーンを入れておいた。
だがこれまで一度もー本当に、ただの一度だって
「映画の中に黒人が射殺されるシーンを入れるだなんて信じられない!何て恐ろしい!吐き気がする!何週間も寝られなかったじゃないか」など言われたことはない。
なぜなら、彼はただの黒人であり、抱きしめたくなるようなかわいいウサギちゃんじゃないからだ。
黒人が射殺されるのは、ひどいことでも何でもない(少なくとも、MPAAの倫理委員とやらの中に、このシーンに文句をつけた奴はひとりもいなかった)。
『アホでマヌケなアメリカ白人』マイケル・ムーア著 松田和也訳
コメント: カナダ在住の20歳男性、「想像上の子供を虐待した」として逮捕される - スラッシュドット・ジャパン (via mcsgsym, reretlet) (via hsmt) (via bgnori)
今日、行きつけのお店で同じ店の常連さんに「絵画展になんで絵を見に行くかわからない」と言われました。
曰く、「写真で見たって、ネットで見たって一緒じゃないか。ましてや、それを高い金出して買うなんて、本当にわからない。その辺、絵画好きな人に聞いてみたいので教えてほしい」というわけです。
別に絵画大好きということもないし、絵画を購入したこともない私になんで聞くのかよくわからなかったのですが、相手もまだ若い方だし、あまり真剣に聞くもので、私も真面目に答えたものです。
「絵画には筆致(タッチ)というものがある。長い時間をかけて画家が描き、またそれ以上に長い時間をかけて今に伝わる絵画はまさに生き物。写真では、その生きザマがよく見えない。絵画を見るなら写真で充分だが、絵画を感じようと思えば、やはり生で鑑賞したい。それと、絵画は時の経過と共に価値の下がらない稀な投資物件でもある。所有するステータスと共に、ノブレスオブリージュの意識の高い欧米では、富裕層が絵画を所有し守ることが文化財保護の仕組みにもなっている」というような説明をしました。
一通り説明したはずですが、相手の方は納得しません。
「見ることと満足を感じることは手段と結果で同じ線上だ。絵を見て満足するなら、それがコピーでもいいはずだ。投資というなら、もっといい投資がある。文化財保護っていうが、結局は物欲の結果であって奇麗事だ。やっぱり絵画の現物をありがたがる気持ちがわからない。言葉は悪いが、スノップの言い訳としか思えない」と食い下がります。
私もどこかでおかしいなと思いながら、返答します。
「現実に本物を見ればわかるが、現物と写真とではまったく色の深みが違う。理屈にはしにくいが、存在感と言ってもいい。投資というのは目利きが大切だから、絵が好きな人が絵画を投資の対象にするのは極めて安全な選択でもある。金の使い道を持て余す富裕層の所有欲を利用することで文化財が保護できるシステムは実利的だ。それがどのような動機であれ、現実に絵画は人々にありがたがられる存在に違いない」と説明しつつ、だんだん私が絵画愛好家の代弁者になっていくさまに、いささかアホらしさを感じました。
結局、アホらしいと思った私の方から、「あなたが絵画の価値に納得していなくとも、絵画に価値があることに変わりがない。あなたがわからない価値だからといって、価値がないわけではない。ただ、あなたが価値を見つけられないだけかもしれない。だから、わからないと思う価値に出会ったら、人に聞く前になにがいいのか価値を探してみたらいいと思う。あなたがわからない価値であっても、他の人には大切なものかもしれないので、くれぐれもそれを踏みつけにしないように」と話を切り上げました。
相手の彼は、それでも「私を納得させられない程度の価値に、絶対的な価値があるとは言えない。誰かの価値観を踏みつけにしているつもりはない。ただ、私は私にわからないものが存在したままなのが嫌いだ。そう言わずぜひこのまま議論してほしい」とがんばっていました。もう充分彼の質問の意図が見えた後でしたので、私はそれ以上その話題には乗りませんでした。
こうなっては、「わからないと言う以上は、わかりようがない」
それが彼へのただひとつの答えだと思ったのです。
結局、彼の質問は「○○がわからないから教えてほしい」と言いながら、「○○をありがたがるなんて、気が知れない」と言いたいだけなのでしょう。
「教えてくれ」と言いながら、すでに「んなもん気が知れんわ」という答えは心の中に確固として存在しているのです。ですから、聞かれた方がいくら言葉を尽くして説明しても「なるほど!」という答えが返るはずがありません。
それは、「議論しよう」と持ちかけながら、その実は論争を楽しもうとする姿なのです。
相手が自身の価値観に揺らぎを見せれば、折伏した勝利者としての自らに満足し、相手が言いよどめば、相手に無知の知を知らしめた自らに満足し、相手が激すれば、なお冷静な論理を紡ぐ自らに満足し、相手が降りれば、ゆるぎなき鉄の価値観を持つ自らに満足するというわけです。テーゼとアンチテーゼから昇華したなにかを得ようとする姿を借りながら、相手の答えが曲がらないかぎりは自らの答えをけして曲げる気がない、堂々巡りの価値観の剣闘です。
そんなことを思いながら、「わからない。なぜ?」と聞く前に、本当に自分にその答えを聞く気があるのか、そこを自問自答したいものだとじっと手を見ました。
具体的に話題にした彼には申し訳ないのですが、今年に入ってそういう問答が何度も私の身に降りかかったもので、いい機会と記事にしました。
「いい大人が、アニメやゲームやフィギュアになぜあんなに熱中するものか、わからない」というような、理性の皮を被ったオタク叩きの記事を見るにつけ、私は思います。
「本当はわかってるくせに。そんなことわかりたくもないと思ってるってこと」
本当はわかっているくせに - 背後からハミング (via naimononedari) (via karlmcbee) (via wonderthinkanswer) (via erohi)
2010-07-17 (via yasaiitame) (via takeakick) (via tatsukii) (via tkamiya) (via hanwarai) (via toronei) (via mcsgsym) (via quote-over100notes-jp) (via tatsukii) (via lovecake) (via yaruo) (via chintonsyan) (via chikuri) (via itokonnyaku)
少しばかり前、トヨタはCMで「ドラえもん」の実写版をでっちあげた。それはもう、目を覆いたくなるような醜いCMだった。金、金、金さえあれば、どんな無法だって許される。作者がくたばってりゃ、さらにやりやすいってなもんだ。かくて、実在こそせぬものの永く大衆に愛されてきた架空の人格たちが、次々と資本の前に屈して汚れてゆく。マネー。マネーイズクレイジー。(浜省)
そう遠くない将来、宮崎駿や高畑勲、鈴木敏夫たちの没後のことを考えると今から頭が痛い。ジブリの版権キャラなんて、ありとあらゆる大企業が欲するに決まっている。ナウシカがチコの実ならぬキャラメルを食べてニッコリ笑い、トトロがスナック菓子をメイに手渡すだろう。海賊ドーラは丸大ハムにかぶりつき、イタリアのブタはサイゼリヤ、魔女のキキはヤマザキ春のパン祭り、ポニョは元気にチキンラーメンをすするのだ。そして節子はサクマドロップをなめるのだ。いや、節子はなんだかそれでいいような気もするけれど。鈴木P、ちゃんと未来を睨んで版権を整理しておかないと、この悪夢はそう遠からず現実になるよ。賭けてもいい。
2012-05-03 - 挑戦者ストロング (via mcsgsym)
名セリフ
(via mcsgsym)
年々魚嫌いになり、いまや肉ばっかり食べたがるうちの婆さん(80)は、年々逞しくなっているのかしら。
日本の未来は明るいわ | 31o5.com (via ukihiro) (via realtime24) (via nemoi)
素敵だ
(via umejin) (via theemitter) (via yaruo) (via appbank) (via taxima2) (via ssbt) (via skaholic) (via ichimonji) (via yasunao-over100notes) (via gkojax) (via usaginobike) (via tra249) (via motomocomo)知識や知性には段階がある。
誰も生まれたてで掛け算などできないのと同様、掛け算ができなければ高校の微分積分はできないだろうし、高校の微分積分ができなければ大学の解析学はできない。
少しずつステップアップすることによって、高度なものを「難しい」と感じることなく理解することができるようになっていく。
ところが、このステップに乗り遅れる者もいる。
脱落してしまった彼らは口々にこう叫ぶ。
「本当に頭の良い人は、誰にでもわかる言葉を使う」
「頭の悪い人に限って、知識を見せびらかそうとして難しい言葉を使う」
だが、そのすべてが誤りである。
「xとyが比例するとは、どういう関係?」
と聞かれて、もっとも簡潔に答えるなら、
「y=ax(aは定数)が成立するようなxとyの関係。」
と答えるのが一番「わかりやすく」、明示的である。
ただ、この際、中学校の数学レベルについてきていない者は「もっと具体的に」などと言い出すわけである。そこでグラフを描いて見せたり、購入したりんごの数と値段との間に成立するある種の摩訶不思議な関係について解説してみせたりなどすると、「最初からそういえばいいのに」といった態度を取る。ひどい場合には「わざと難しく言った」といった被害者意識まで持つのだ。
そのすべてが誤りである。
この言葉の使用は、「本当に頭の良い人」という架空の概念を用いることで、「わからない」という避けがたい事態の原因を、「自分の能力の低さ」から「相手の能力の低さ」へと移行させるための、よく用いられる手続きに他ならない。
高校教師や予備校教師が「あの先生の授業、わからない!」と言われる場合にもしばしば該当する。
彼らが漠然とイメージする「本当に頭の良い人」とは、せいぜい彼らに日常的な算数(おつりの工夫のしかた)や、たかが知れた四字熟語(『同語反復』など)を、彼らにもわかりやすく教えられるような程度の人物にしか過ぎない。
自分が理解できる範囲だけが真実なのではない。
本当に頭の良い人はわかりやすく書く - 名言と愚行に関するウィキ (via tsundere) (via nagas) (via stratums, sirchronofrost)
2009-08-11 (via gkojay) (via ssbt) (via petapeta) (via zenrahanra) (via otsune) (via tatsukii) (via lovecake) (via yaruo) (via gkojay) (via ume-maki) (via edieelee)